【 38ans 】について

【 38ans – Self portrait – 】作品更新しました。

久しぶりの人物。自画像に取り組んでみたいと思い2月頃からずっとやっていたんですけれど、試していることがなかなかうまくいかない毎日で焦燥感に苛まれる日々を過ごしました。2月28日、イノセンスの4Kリマスター版を観に行ったという投稿をしたのですが、あれがとても自分にとって大きなヒント/何か得られたような心地がしたのです。劇中には鏡という単語を発する会話のシーンがあったなと思いながら観ていました。イノセンスを観ながらそういえば攻殻1でも鏡の話は出てくるなと思い、その後攻殻1を連続で鑑賞したのでした。困った時押井守は重要なことを教えてくれる。


鏡は悟りの具にあらず、迷いの具なり。

引用元はもう少し長く、全文は
鏡を看よといふは、反省を促すの語也。されどまことに反省し得るもの、幾人ぞ。人は鏡の前に、自ら恃み、自ら負ふことありとも、遂に反省することなかるべし。鏡は悟りの具ならず、迷いの具なり。一たび見て悟らんも、二たび見、三たび見るに及びて、少しづヽ、少しづヽ、迷はされ行くなり。

となる。意味としては「人は鏡を前に、自らの姿に頼もしさや、劣等感を感じることはあっても、結局反省することはない。一度、鏡を見て悟ったつもりになっても、二度三度と繰り返し見るたびに、ますます迷わされていく。」ということらしい。

何人か鏡を把りて、魔ならざる者ある。魔を照すにあらず、造る也。即ち鏡は、瞥見す可きものなり、熟視す可きものにあらず。

この意味は、
「どんな人でも、鏡を手にすれば「魔」にならない人はいない。(鏡は)「魔」を照らす(見つける・明らかにする)のではなく、「魔」を作るのである。(だから、)(鏡は)ちょっとだけ見るものであって、じっくりと見るものではない。」

どちらも斎藤緑雨からの引用。なんだか昨今の個人主義への非難としても受け取れるようにも捉えられる。自分を可愛がってばかりの奴は云々…。

これを受け意識してみることによって鏡に映る自分の見え方は変わる。捉え方、描き方も変わる。自画像として似ているものであるかと問われるとそんなことはないのだけれど、それでも自画像として。昨今のアンチエイジング、整形や加工の流行りで目は大きく、鼻は小さく、エラを削るなどあると思うのだけれど、この作品ではそれらを逆に目は小さく、鼻は実物より主張気味に、輪郭はぼかしエラや顎が強調されたような見た目に。そして、エイジング。光の関係もあって、結構落ち窪んだり頬骨が強調気味になっている。

流行りに乗っかると同じところに集約されていく。己とは。己の身体とは。個を個性をなんたら言っておきながらもその結果、攻殻的に言えば外見は人形のような/全て既製品にのボディになっていくのだろうか。

”「ゴーストのない人形は哀しいもんだぜ
特に赤い血の流れてる奴はな」”

イノセンスを観ながらも次に挑戦したい作品も頭に浮かんだりなどして、そして結局最終日も観に行ってしまって。それも今度の作品のためかもしれない。


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