総合型FacebookなんかはもってのほかtwitterやBlueskyのようなtext型SNSがいくらあっても、本音や考えていることを出力する場には程遠い。そんな私にとってそのためにこの場があるのだろうと思う。
神戸に来て描くことを考えている。ずっと。生きてこそ当たり前という考えを持ち合わせていないことを以前綴った。私の死生観というか、人間としての価値観はミルトンの「失楽園」がとても近い。私には、いや人間誰しもがルシファーである部分を抱えていると思っている。失楽園を読んだときこれは自分のことを記しているのだと思ったほどだった。
”一敗地に塗れたからといって、それがどうだというのだ?すべてが失われたわけではない”
この言葉は本当にどうしようもない自分を立ち上がらせてくれる言葉であった。見返してやろうだとか復讐してやろうとかもうそういうのはどうでもいいのだけれど、とにかく腹の底にはこのようなものがある。それはそうと、失楽園を読んだ時に思い浮かんだ言葉は ” 生きることは罪であり罰である ”であった。そして、自分が抱えてきた感覚を最も言い表しているように感じる。キリスト教の原罪というか、全くキリスト者ではないのだけれど、この感覚だけは幼い頃からそうなので仕方がない。だから、明るく生きていていいのだと言われてもそんなことはないでしょうとなってしまう。幼い頃はまだ安心する部分は残っていたような気がする。不安な中にもどこかに生きていいのだというのがあったけれど、大人、いや社会人?学生の時期を終えてからは生きるためには税金というものが…であるとか生きたいのであれば一定の能力がなくてはならないというような、私にとっては難しいなと感じる場面が多かった。今でも多いけれど、高校を卒業したばかりの頃は氷河期の残滓や煽りを受けている部分もありひどかった。いまはなんだか、税金のために生きてくださいねと言わんばかりだもの。
宇宙規模というと大きすぎるきらいもあるが、地球規模で人間が生きることは/人間が行なっていることは地球にとってはおそらく良くはない。いない方がいいのではと考える場面が多い。では滅べ、というような簡単な問題でもなく、一度始めたchronicle はどこかで終わりが来るだろうし、しっかり終わらせる/完結させる必要がある。それは個人の一生としてもそうで。それは自死を推奨するというわけではなく(これをどうしてダメだと思うのかが自分でも不思議なのだが)しっかりと閉じる必要のあるものなのだと思っている。できることなら力を使い果たしてしまって逝きたい。そういう生き方はもうほとんどできないような環境になってきている。
何が言いたいのかわからなくなってきた。とにかく書きたいことを綴っているだけなのでまとまりがないのは仕方がない。どうでもいいついでに神戸に来ていろんなところへ行って見てというように漫喫するようなことはなくて、やっぱり仕事というか、やることが優先される。様々な楽しみを味わって欲しいと思うかもしれないけれど、そういう余裕がない。そういう生き方をしてきたので仕方のない部分がある。
そうだ、何を描くのかというようなこと、描くとは何かというようなことだった。アートの感覚でやっている感覚は初めからない。言葉のあやで描いているとは言うものの、描いているというつもりもない。美術であるより呪術が近いのではないかと思う。呪術、まじないの類。表現というより目の前にあるものを見てそれに対して何かを考えたり想ったり、祈ったり何かを込める。本当にそういうことなのだと思う。それが絵になり何か感じるものになっているのかもしれないなと最近は殊更考えている。
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