20230829 : SNS

活動について

参加したシビュラ展、きっかけはTwitter(X)でした。足を運んでくださる方もTwitter(X)のpostを見てきてくださるようでTwitter(X)での広報に力を入れていました。毎日同じような投稿で辛いものがありますね。全員が毎日見ているわけではないけれど、変わり映えのないpostを見て何かしらのreactionをいただけることは有り難いなと思いました。まだTwitter(X)使うの?という感じもしますが、これまで覇権を握ってきた影響力は今もなお大きいということでしょうか。いつまでこのような使い方ができるのか。最近は、impression数が高い者に賃金を支払うということになったので、使い方もだいぶ荒れています。

以前からTwitter(X)にはさまざまなことが言われていますが、幸いなことに私の見える範囲は世間が言っているほど荒れてはいないのでそれなりに使いやすい状態です。しかし、絵や彫刻など芸術関連の情報は充実していますがそれ以外になると疎い、そんな状況。しかし、Twitter(X)では特にそれらの情報を得られるようにする必要もないと思っています。

Twitter(X)が堕ち始めてからいくつかのSNSがreleaseされました。代替を探しているuserは多く、Blue skyであったり、注目されたmeta社instagramのtext強化型Threadsなどへ移った方も多いようです。使用した感想や噂も聞こえてきています。どちらもrelease間もなくまだ実装されている機能は少ないため、長く運営されてきたTwitterのような使用感、満足感は得られないとは思います。そもそも比較や同じものを求めるのはお門違いなのでそれらは求めてはいけないのに、人は同じものを欲してしまう。これから機能が増えていくと思うので、これからなのでしょう。どちらも分散型のSNSでもあるので、いずれさまざまな人たちと繋がることができるようになるはずです。

User数が多ければその分影響力も大きくなります。しかし、もうみんながやっているからという理由では手は出さないと思います。Twitter(X)がだいぶキナ臭くなり、今回のような展示の告知、広報をどのようにしていくかなどは考えますが、その時はその時ですね。

Social Network Service、SNSは反射的にpostできるのが良いところではありますがそれが仇にもなりやすい。感情的なpostは後々後悔する場合も多く、それらを目にすると嫌な気持ちになります。最近のTwitter(X)の使い方はたいてい予約投稿です。これまでTwitterは今ので3回目、instagramは5回、Facebookは2回acountを作りましたが、Twitter以外はもうやっていません。みんな一人で生活しているのならなんとなくわかるのですが、どうしてそれほどSNSを求めるのか。もっと傍にいる人、目の前の人と話す時間を大切にすればいいのに。

それと、個人的な話では最近fedibirdから離脱しました。fedibirdというのはmastodonの中のinstanceのひとつです。

確かに面白いと感じています。mastodonには博識な方、頭のいい方、物事に詳しい方などがよく集まっているように感じるのでinternetを始めた中学生の頃の状況に似て尚更居心地の良さを感じます。社会的なpostが多くそれらに疎い私にとっては良かったのですが、毎日のようにそこで話しているだけに感じられてしまい、なんだかちょっと無理だなと感じました。

身体を伴う実生活でも、みんなで集まって話すこと雑談などをする場面はこれまでも大嫌いで、どうもそれを感じてしまう。

いろいろ考えましたが、なんだかんだで私の今の状況はその人たちのような余裕はないように感じました。余裕がないというより、他にやることがある。面白さを求めるのなら個展に向けた活動が面白い。いちいち愚痴ったりする必要もない。行動していかないと何も変わらないから。

それと、mailなどにも多いのですが文章から相手の考えていること、文面にはこう記されているけれど違う感情を抱いているのだろうなと、それを感じてしまうのはやっぱりやりにくい。

雑談したりそれも大事なことなのだろうけれど、もっと自分に厳しくというか(そのつもりはないのですが)絵を描くためにふさわしい状況、そのために自分が居心地の良いと思える場所に据えていたいと最近ますます感じるようになりました。

そのため離れました。

会ったことのない姿の見えない人とやり取りするのは面白くもあるのですが、大変さもあります。なぜ愚痴や他者への悪口を好んで喰らいにいかなくてはならないのかなんて瞬間も少なくはないです。

正しいのものそうでないもの、さまざまな情報ががあやふやに混ざり合いながら流れており大きく間違えた認知を抱えることもある。なかなか愚かしいとは思ってしまうのですが、虚を信じてきたのが人間の歴史だと思えば仕方のないことかもしれません。何を信じるか、人の意見だけに頼らず囚われず、自身で考え各々の意見を持つことがこれからますます大事なのかなと最近よく考えます。自身が揺らいでいると感じることも多いです。SNSとどう付き合っていくか、惰性にではなく状況に応じ常に考えることも忘れずに過ごしていこうと思います。

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