朝、余裕がある時は走ることにしています。25、6歳の頃、東京から戻った時は30分歩くのも辛かったけれど、あれから随分と動くことができるようになったと思います。ある程度の距離を走ることは他の運動やsportsなどとは違い、特に運動神経は必要がないように感じます。身体はどうか、どう動いているか、左右の動き、balance、考えていること、呼吸はどうかなどを意識することが多く心身の状態を知るのには良いなと感じています。
最近、走る中で疲れや暑さを感じたり頭にそれがよぎると走ることをやめてしまう自分がいることに気がつきました。
【Colinky】でも書きましたが、心配することがない考える必要のない時は集中しやすいのですが、これからのこと/やること、気になることを抱えていると集中しにくい自分がいます。何かを信じていられることは、それだけで力が湧いて進むことができる状態にあると思っています。不景気になるとカルト宗教や新興宗教、スピリチュアルなどが流行るとよく目にするのですが、それはその人にとって信じられるものがお金だったり、会社や社会のことだったりするからでしょうか。
私にとっての絵画というものは、宗教というか信仰的な要素のあるものということを随分以前から気づいています。
高校を卒業してからしばらく金属でAccessoryを創作していました。一度東京から戻った時、自身の信じているものが何かわからなくなり全く何もできなくなったことがありました。おそらくそれまでアーティストだと思い込もうとしていたが、それがいいものとは思えなくなりやっていることを信じられなくなったからだと思います。私は何者でもないのだ、だから努力しなくてはいけないと思い行動を再開するまでしばらく時間がかかりました。足を止めたら再度走り出すことが困難であるようにできるだけ立ち止まらず歩を進めていたいと思っています。走っている時と同じで一度立ち止まると動き出すのにenergyがいりますから。そういう点で振り返ると2022年は凪いでいる海の中にいるようにうまく進むことができない時間だったと思います。その間、描いたものは残るものがとても少なくなりましたが、そうやって描くことで今、上描きすることができています。絵具やその他消耗するものはありますが、そのように過ごした時間も作品にとっても全然無駄だったとは思いません。
物事を信じること。余計なことを考えないこと。
internetやSNSの普及などからさまざまな情報に触れることが多くなりました。人間の特性なのか、gossipやnewsにはよく目がいくようですが、その中には余計なこと、不安を抱かせるものが大半を占め多分に含まれているように感じます。
周りがどう思おうとそんなことはどうでもよくて、ドン・キホーテでなくてはならない、アロンソ・キハーノなのだと認めてしまうと足を止めてしまうから。
悪事もまたそのようにして起こるのだろうと思いますが、善も悪も所属する社会が決めていることで、時代や視点が違えば悪人が英雄になることもあります。今照らしてみるとそれはtabooなことだという見方にも至ります。これが全て統一され、皆が皆、同じ善を求め同じことを考え発するようになってしまうことはまた危険でもあるなと最近思いました。
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