作品に対する意識がどんどん変わってきているなと感じる。適当でもなんでも点を打ち続けることでわかってくることがある。重たい作品と言われてきたけれど、描きたいのはおそらくは風や空気なのだ。それらは目には見えないのだが最近はそれをよく意識するようになった。
絵画には視線の流れ/視線誘導に優れた構図の作品はたくさんある。それらの中には名画とも呼ばれるものも存在するがそれがどうであるかなんてことはどうでもいいのだけれど。それと似ているようで別物であるのだが、滞る/じっと止まるものではなくどこか流れを感じるものは感覚的に受け入れやすい。それは筆致であったりもする。絵が上手いということは流れるようであるか、一貫しているかどうかとも言えるかもしれない。相反するようであるが恒久的にいつまでもそこに在り続けるのではないかというような時間を感じるものを描きたいのだ。
それと事細かに何を表現しているのか、どのような物語があるのかを明確に描くのではなく、何か言いたいことを表すものでもなく、本当にそれらに関してはどうでも良くなっている。政治や歴史的なこと現在とは切り離すことは不可能だが、それらを強く訴えるメッセージ性の強いものを求めているのではない。
光が当たって、影ができて、そのものの色が形が浮かび上がって、それだけでドラマ/ストーリーは十分である。本当に最近はそう思うようになってきている。自分がどうであるか、どのように考えているか思っているか、それを前面に出した主張の格好悪さ、そういったものは根っこにあるべきである。強さを求めるとしたらその部分だろう。例えば、描いているレモンやリンゴとは無関係であり、それらに私というものを無理に背負わせるようなことは過剰になりかねない。私がその時どのようであるのか、それらは自ずと現れるものであろうから。
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