20240914 :

8月に日本橋のARTDYNEで笹田晋平さんの個展で、ご自身の作品を日本の現代美術に残すべきものだとおっしゃっていたのがとても強烈に残っていて、それ以来ぼんやり考えていることがある。それは自分がもっとアングラでいいと感じたことと無関係ではないはず。自分の作品が歴史に残るべきだと言えること自体すごいことだと思う。私は言えるか。私の作品が”これは残すべきだ”と評価されたとしたら目の前で燃やすかもしれない。私は人に対して平気でそんなことをする人間だと思う。と、そんなことを思ったけれど、作品に対してそんなことができるかどうか、きっと出来はしないだろう。いくら媚びてくる人が嫌いでも。

美術史で歴史的に語られるものがある一方、語られることのなかったものも存在している(現在存在していない)わけで、最近はこちら側に興味がある。利権的な問題や人の好みで消されたものは必ずあるはずなので。そして、人間関係/人と関わることが上手くなければ残る可能性は低くなるだろう。もしかしたら本来残るべきだったものが残っていない、戦禍によって消失したりもあるだろう。運というものか運命なのかそれらに左右されたり、残っているもの現存するものこそ傑作、そんな定義が成り立ってるかもしれない。端的に言えば残されなかったものが見てみたいなということなのだけれど、おそらく私もそちら側だろうし。それと、当たり前のことを言うが残っているから語られるわけで、残らなかったものは語られることがない。時間が経てば限りなく0に近くなる。その見えているものが全てだというような態様が好きではない。得意げに語らうなよと思ってしまう。現代の日本では現代アートや写実の女性画の流れが大きそうなので歴史としてはそのような文脈で語られることになるはず。そこから外れている私はどんなに優れた作品を描こうとも大きく語られる歴史からは当然省かれるはず。いや、美術史で語られたいわけではないのだけれど。美術をやっているなんてことを最近は思うこともなくなった。現代の画家の流れとは違うことをしている感じがして仕方がない。側から見た言葉で表せば同じ絵を描いているなのだろうけれど。描いているよりやっているが近い。言葉で表現できるかそんなもの。そのようなところがtext型SNSの難しいところ。text型でなくとも全て同じ括りでまとめられている。

コメント

タイトルとURLをコピーしました