「あなたは何か本気でやったことってありますか?」
以前問いかれたこの言葉にいつの時も躓いてしまう。今回のStillはどうだったか、本気ではやれていないかもしれない。そもそも本気とは。一つの作品に取り組むとする。いつだってこれまでの限界をみようとするのだけれど、どこまでも広がる。限界までやってみようとするのだけれど、奥へ奥へとどこまでも実に深いものだと感じる。まるでその末端に到達することのない宇宙のようだ。もちろん、とても疲れることもあるが、その次に同じ程度の出力をしてみてもそれほどでもなくなる。スポーツだったら全力でやることが本気なのかもしれない。本気で100mを走ってみる(速さを競う意味がわからないが)とか。絵において本気とは難しいかもしれない。
20〜22歳の頃、実家の建築業を手伝っていたのだけれど、なんというのだろう、摂食障害というか栄養失調状態というかそのような身体で仕事をしていたのだが、全然力が出ない。全力で力を出しても疲れるだけ。これを本気と言うのなら違うだろう。頑張ってますと言っても人の半分の成果も出ない。本気であるのなら身体をその仕事にふさわしいものになるよう日々鍛錬すべきである。
今回のStillの期間中に家族と会った。親が来た。実家を手伝っていた時仕事は本気ではなかったかもしれないが、仕事を上手くやったら後継者になる、その恐怖があった。そこから本気で逃げていたのだろうと思う。身体を犠牲にしてまでも逃げたいものだったのだろう。身体は10年以上は戻らなかった。その時間は犠牲かどうか、どのような経験でも経験であるのだからそれは違うだろう。今は日々良くなっている。今でもここで/絵で何の成果もあげられない場合の恐怖というのはある。
弟が来た。日本は7年ぶりだという。日本にはいられないと思い異国へと旅立った。言語も文化も違う土地で仕事で今何かを成そうとしている、それこそが本気だろうと思う。彼のことは尊敬している。美味いものが食べたいという彼に自分の分を与えたい。私はそのようなことを望みませんからその分を彼に与えてくれよ、本気で思っている。それと同じようにもっと寝たいという人には私の代わりに眠ってもらえたらと思う。態度次第では多くのことが自分にとって無関係で無駄なものとなる。何もかもを、不要なものを手放して人間をやめてしまうことが本気かどうかはわからないが、本気を目指すのならその方向へと向かいそうである。
何かを得ようとすることより、どちらかというと0に向かうことを好むのかもしれない。人のためになどというのがくると今でももうやめるべきかを考える。それ以前に生きてよいのだろうかは毎日のように悩む。自分のためにやることは贅沢なことと思っている。そのような贅沢はしてみたい。やはり精神性や魂といったものには興味がある。そのために生きているところはある。このまま何に対しても本気になれず終わってしまうかもしれない。
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