前回の続き。
とにかく生きろと言われて素直にはいそうしますとならないのは、価値を求められてきたからではないかと昨日眠る前にそう思った。生きているのなら何ができるのか、どのように役に立つのか、有益であるか、優秀か、それを教育のうちからそうやって育ってきたからなのではないだろうか。 人口削減云々それは本当かはわからないが、確かに人口が増えすぎると難しくなるものはある。人の代わりに仕事をこなすモノも現れ始めた。ますます生きる意味を求めてしまう。最近、時間があるのに何もしないのは勿体無いと考えることが自分の通常思考になっているのだなと気づいた。本来、遊んたり何か楽しんだりするのもいいし、何もせずダラダラ過ごそうとかまわないはずなのだ。それができない、それって一種の現代の病なのだろうなと思う。まぁ、今更病でもなんでもいいのですよ。大抵のものは思い込みであり、幻想であり、社会なんてものは本来でっち上げられたもの、大量に刷られたお札を破いたり捨てられないのも一種の病であり、それを信じているのも宗教のようでもある。
このまま風呂敷を広げすぎると本題に戻ってこなくなってしまうのでやめるが、生きることを肯定されているこの地でもやはり私は自分の生きることへの眼差しや問いかけを続けていかなくてはならないと思っている。人にとっての価値ではなく、どこまでできるのかといった物事への探求/探究であったり、己というものとの戦いでもあり続けるのだろうと思う。その姿勢を変えてはいけない。そう思う。社会や人類や地球、さまざまなことに目を向け思考するアートというものをやっているわけではない。自分がやっていることはただ目の前の、一つのものに力を込めるような、まじない、呪術的なものなのであろう。
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