アタラクシアで考えたことと以前から考えていたこと、最近の出来事で色々と感じたことがつながったので追記。
植物などは実をつけるためであったり、次のために咲いては枯れる、というようなことを書いた気がする。最近の人間に起きていることの不自然さはそこにある気がする。人生一度きりなのだから楽しみましょうよというようなことですね。それってどうなのだろうかということ。なんとも終末感がある。
”われわれの生まれたのは、ただ一度きりで、二度と生まれることはできない。これきりで、もはや永遠に存しないものと定められている。ところが、君は、明日の〈主人〉でさえないのに、喜ばしいことをあとまわしにしている。人生は延引によって空費され、われわれはみな、ひとりひとり、忙殺のうちに死んでゆくのに。”
エピクロスもこう言っているのだが、当時と今とではずいぶん違うので今の喜びとも違うであろうし、社会の在り方も違っているだろう。
身体は違っても長い時間旅を続けて今自分に至るものというのがある。体を乗り換えながらどこへ向かっているのかわからないが。それは魂というものなのか生きる意志なのか。それはいつどこから来たものなのかわからないが、長い時間をかけて歩んで今に至るのだなということを最近よく考える。でも、残念ながらここが最終地点なのだという感覚も持っている。これまでそれを続けて何処かへ行こう、繋げて遠く(長い時間)へ行ってみようという意志がもうないのは、私が生きる環境にうまく適応できなかったからだろうか。もういいよという諦めを持っているからなのか。体を乗り換えていった先に何かあるのか見えてきたからなのか。
だから、楽しみましょうよで生きるようになった人間という種はおそらくどんどんと数は少なくなって当然なのだろう。一回生ではあるが本当はそうではない。
とにかく、自分は独りかというとそういうわけではなく、原初の意志がずっと繋がってきた末端なのだなということ。生きることが正しいことなのか、正しいかどうかなんてどうでもいい、そのような意思でここまできたのであれば種を繋ぐこと、次の子供のために時間や力を割くべきであっただろうと今更ながら、国としてももう遅いのかもしれないが。
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